山陽山陰の旅 3日目 <島根:石見銀山、大森> 前編
2023年 06月 03日
島根で最初に訪れたのは「石見銀山世界遺産センター」
広大な駐車場、手入れの行き届いた庭、そして立派な建物!
石見銀山を見学の前に、こちらの施設で少し学習
入口には世界遺産のプレート
2007年「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、鉱山遺構としてはアジアで初めて世界遺産に登録。
・伝統的技術による銀生産の跡が豊富で、良好に、残る
・環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行い、鉱山遺跡と豊かな自然環境が一体となって文化的景観を形成
していることが特に評価された。
世界遺産の構成資産は、鉱山だけでなく銀を運んだ街道や積み出した港も含む。
銀山町や港町には今も人々が住み続けているのが素晴らしい。
青:このあと行く「龍源寺間歩」がある銀山地区
赤:銀山に至る大森の町並み地区
黄:鞆ヶ浦道、温泉津沖泊道を通って、鞆ヶ浦、沖泊・温泉津から船で世界へ
石見銀山には大小合わせて600以上の間歩(坑道)があるが、龍源寺間歩は唯一常時公開
有料展示室の入口には早速、銀貨が積まれてる!
御取納丁銀(おとりおさめ ちょうぎん)のレプリカ
永禄3(1560)年、毛利元就が正親町天皇の即位礼のときに献上した丁銀1100枚を再現!
丁銀は室町時代から江戸時代にかけて作られた、楕円状の銀貨幣の呼称。銀の重さと品位によって価値が定まる秤量貨幣。
大航海時代、石見銀山は日本の銀鉱山としてヨーロッパ人に唯一知られた存在だった
1527年に九州博多の豪商・神屋寿偵によって発見されて以来、1923年の休山まで約400年にわたって採掘。東アジアの伝統的な精錬技術「灰吹法」を取り入れ、良質な銀を大量に生産した。
世界地図にも描かれた、世界有数の鉱山遺跡
「Hivami (石見)」と「Hizumi(出雲)」の間に「Argenti fodinae (銀鉱山)」の記載
石見の銀は火山の営みが生み出した。
約4千年前、島根県で唯一の活火山「三瓶山」の噴火で裾野の森が火山灰などに埋まった。三瓶山の西方にはそのマグマの作用が優れた銀鉱床を生んだ。
16世紀末頃、世界の産銀量の1/3を占めた日本で、その大半を採掘したと伝わる石見銀山。太古の噴火で銀を含む熱水が湧出し、銀に恵まれた鉱脈ができたのです。
江戸時代の銀の製錬所「吹屋」を再現
中では銀をとり出す技術「灰吹法」を実演!
右:①粉成(こなし)、左:②ゆりわけ
①鉱山から持ち込まれた鉱石は荒割りし、要石を台にして粉砕
②水を張った桶の中で、ゆり盆を使ってふるいにかけ選鉱
③素吹(すふき)
吹床で鉛を加えて溶かす。
銀が鉛と結びつきやすい性質を利用し、貴鉛(銀と鉛の合金)を製錬
④灰吹(はいふき)
灰を詰めた炉(灰床)で貴鉛を熱すると、酸化した鉛は灰の中に吸収され、銀は炉の上に溜る。鉛と銀が分離し、灰吹銀ができる。
吹屋で製錬された灰吹銀は、品位検査で目方を量り、長銀の形状に整えられたあと、極印と呼ばれる責任者の印を打つ。他に、花押や銀の重量が墨書きされることも。
本谷地区の鉱山町 (江戸時代前期を再現)
右下で製錬中!
江戸時代の銀山はまわりを柵で囲まれ、山内と呼ばれた。9ヶ所の番所では人や物の出入りが厳しく管理された。
山内には鉱山で働く銀掘(坑夫)の住宅、銀吹屋、極印屋、鉄蔵、鉛蔵など、銀を生み出すのに必要な建物があった。狭い谷筋には家がぎっしり建ち並び、鉱山の町をつくっていた。
「大久保間歩」の一部を再現
全長900m、石見銀山最大の坑道。
ブラタモリでタモリさんが訪れたのはここ。一般人が入るには曜日限定のガイドツアーのみ。
ひととおり見終わったら、そろそろ移動
まず、青い現在地からバスでA地点へ
「ぎんざんカート」に乗り換えA~Bに至る町並み地区を通過
そのままB~Cの銀山地区も通過し、一気にC地点:龍源寺間歩へ向かった
大森代官所跡バス停、着
藤棚満開!
ぎんざんカートへ乗換 (写真は下車後に撮影)
気持ちよく風を切って、レッツゴー!
街を流れる、銀山川
橋を渡ってすぐ、大森代官所跡
ドライバーさんはガイドまでしてくれます
乗り心地もよく、こういう乗り物ってめっちゃ楽しい!
大森の町並みに入りました
閉山から100年経つが、今も人々の暮らしがある。
町には電線がなく、整備も行き届いていた。
御屋敷も
店舗もちらほら
人気のドイツパンのお店
特徴的な一画
あとで登ります!
旧大森区裁判所
重伝建の町を堪能!
竜宮門が美しい栄泉寺
おしゃれな洋服屋さん
趣あるT字路に・・・
木の自販機!
大田市立大森小学校
世界遺産の中にあり、今も生徒が通う日本唯一の小学校。
全校生徒24名分の鉢植えが並んでかわいい。
少し景色が変わってきました
そろそろ銀山地区です。
大森の町並みは銀山に至る谷沿いに発展した、幕府直轄地(天領)の中心となった町。
この谷の奥まった所が鉱山地で、坑道や精錬施設の跡が残る。
下河原吹屋跡
のちほどじっくり
気になるたたずまいの、豊榮神社
川向うに間歩があるらしい。復路で寄ろう。
道路沿いに現れた、間歩番号461の入口
間歩には全て3桁の番号がついている
こんな小さいのも (間歩番号459)
カート、下車
少し進むと、見えてきました
あの管理棟でチケット購入
龍源寺間歩
現在、人が入れる間歩は2ヶ所あり、そのうちのひとつ。大久保間歩の次に大きい。
本来の長さは600m
そのうち158m地点までを観光用に公開。
その旧坑道には鉱脈を追って掘った小さな坑道「ひおい坑」が枝状に短く伸びる。
そのあと、平成元年に新設された新坑道116mを歩き、出口へ。
龍源寺間歩は「間歩番号500」
栗の丸太で四本柱を組んだ「四つ留」の坑口
すぐ近くに小さいのも
さ、入坑!
すぐに景色が変わる
普通に歩ける高さです
坑道はほぼ水平に進んでいて、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使った
坑道の壁面や天井にはごつごつした当時のノミ跡も残る
気温11℃
あちこちでライトが照らす先には・・・
「ひおい坑」
鉱脈を追って掘り進んだ跡
激しいノミ跡
竪坑
垂直に彫られた坑道で、龍源寺間歩に溜まった水を約100m下の永久坑道へ排水した
延々続く坑道のスケール感と・・・
人の手が岩を掘り続けた気の遠くなる作業に驚く
少し広くなった所に出ました
入口から158m地点
旧坑道を歩けるのはここまで
この奥は江戸時代に掘られたもの
高さ2m 幅90cm で大人がやっと通れる大きさ
195m地点で落盤のためふさがっている
ここからは左折して新坑道を116m歩く
やや上り坂
途中、腰掛けもあり
右壁には江戸時代後期に描かれた「石見銀山絵巻二巻」の電照板を展示
坑道内作業の様子を15枚に仕立てた
出口が小さく見えて心なしかホッとする
①四つ留之図
坑道の入口を「四つ留」といい、丸太の木を組んで土石が落ちるのを避けて安全な入口を造った。坑夫たちは鉱脈を目当てに坑道を掘り進む。
坑道のことは山言葉で「間歩」「敷(または 鋪)」「敷内(または 鋪内)」「山」と言った。
②四つ留役所之図
代官所直営の5つの間歩(永久、大久保、龍源寺、新切、新横相)の坑口には四つ留役所が置かれ、役人が詰めて昼夜厳重に坑内の監督や見張りを行っていた
③御代官様 銀山御見廻之図
代官所直営の5間歩は御代官が年に数回「御用見廻り」を行った。銀山附き役人4~5人と、供廻りの御仲間2~3人を連れて馬で巡見。
④四つ留役所前 柄山捨場
山言葉で捨石(銀の含有が少ない石)を「柄山(がらやま)」、捨石を捨てる場所を「柄山捨場」と呼んだ。
柄山捨場にはまだ鉱石が混じっているので、山内の女・子供・非番の人夫たちが鉱石拾いをするようになった。
⑤鋪内之図
間歩坑内の図。
右側から、柄山(捨石)を背負って歩く人夫、左右に横木を渡した踏台を歩く姿、丸太梯子を使う人が描かれている。
⑥片立木留之図
A:押木留之図・・・天井の土砂を留めるため木材で被う
B:掘子共鏈掘図・・・堀子人夫(鉱夫)たちが鏈(くさり、鉱石)をノミで掘る
C:水鋪水取之図・・・坑内の溜り水を水箱に竹ポンプで吸い上げる
⑦留山師両立木留いたす図
A:石留之図・・・石を掘り抜いてトンネル状の坑道を設える
B:水屓上ル図・・・水汲み
C:鋪内之図・・・立木で中程の横穴に支柱を設える
⑧大水鋪角樋二而水引揚ル図
坑内の湧水を木製の角樋(ポンプ)で段々上に引き上げて、疎水坑へ流し出す
⑨唐箕風箱之図
江戸時代中頃から唐箕(とうみ)を改良して、坑外の風を坑内に昼夜送る作業を行った
⑩留木拵之図
坑口前の広場では坑内の支柱を拵(しつら)える仕事を行った
⑪四つ留役所二而入用払之図
掘子大工たちが当日のノルマを四つ留役所へ背負い込んで、その賃金をもらいうけている。
役所内には銀山方の役人、銀山町方、番所方役人の姿も。
⑫「鉱石を掘る」
掘子は鑚(たがね)を鋏(はさみ)で固定し、鎚(つち)でたたき鉱石を掘る。暗闇、油煙、石塵の中で大変な労働だった。
⑬鉱石を運ぶ
掘子が鉱石をかますに入れて背負い運ぶ。狭い坑道の中、サザエの殻のランプの灯りだけが頼りだった
⑭坑木を組む
落盤防止のための坑木を組むのが留山師の仕事
⑮水をくむ
深く掘れば水が湧く。坑内の排水作業は鉱石を掘ること以上に大変な仕事だった。竹や角樋のポンプ、桶を使用した。
絵巻は素朴なタッチで坑内風景を描いていた
外へ
新設した坑口も、ちゃんと四本柱を組んだ「四つ留」に
3つの小さい間歩が並ぶ
高さ10cmほど
やっと来れた石見銀山、名残り惜しい・・・
このあとは、カートで登ってきた道をのんびり歩いて、銀山地区と町並み地区を楽しみます!
木立を進む
佐毘賣山神社
神話の神を称える神楽が舞われる
保存修理工事中で、参拝できず
銀山川沿いの遊歩道へ
苔むす石積み
シャガに潤う
視界が開け、橋の向こうに「高橋家住宅」
江戸時代、有力な鉱山経営者だった高橋家。「町年寄 山組頭」として銀山経営に携わる人たちが住む町の運営に係わり、代官所と鉱山経営者である銀山師たちとの取次なども行った。
建物は通りに面して風情ある佇まい
先程の佐毘賣山神社の社務所でもある
市道を進むのも気持ちいい
たけのこ、ニョキッ!
道路脇に、福神山間歩
間歩番号459番と461番があり、番号がとんでるので近くにまだありそう。崩れて塞がったのか、見つけられず。
ここは山師個人が経営した「自分山(じぶんやま)」。ちなみに、龍源寺間歩など幕府代官所直営の間歩は「御直山(おじきやま)」と呼んだ。
間歩番号459番と461番は道路下で合流し、銀山川の下をくぐり、向こうにそびえる山へ掘り進んでいる珍しい間歩
新切間歩(間歩番号600)へ
青もみじが美しい!
幕府代官所直営の「御直山」のひとつ
銀山川を渡った正面(案内板の右)にポッカリ開いています!
最初は疎水坑(水抜き坑)として掘られた。江戸時代後期には坑口から520mまで掘り進んだ。
市道には戻らず、遊歩道を進む
民家が点在
放し飼い!
のどかです
清水寺(せいすいじ)
見上げる薬医門が印象的
ほんとに危なそう
石積みが見えてきました
ただならぬ雰囲気です・・・
つづく
by ystsushin
| 2023-06-03 19:24
| 国内旅行
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